最後にロードバイクに乗ったのが、3月。
そろそろロードバイクに乗りたいなーと思ってはいるものの、なんだかんだ準備をしているうちに気が変わり、結局乗り心地の良いマウンテンバイクで家を出てしまう。
だってね、速度を求めなければマウンテンバイクでも十分ツーリングはできるじゃないですか。それに用途と行き先によってはマウンテンの方が向いていたりもしますし。
そんなこんなで、なんと今年は夏用のレーパンを一度も履くことなくこの季節を迎えてしまいました。
・・・で、一体何が言いたいかと申しますと、最近は全く攻めてないんですよね。
いや、攻めてないどころか、ロードバイクで走行するべき運動強度を一度もこなしていない。
もちろん私にとってのケッタライフなどその日その日が楽しければそれで良いのですが、たまにはちゃんとトレーニングもしましょうよと。定期的に地獄を味わいましょうよと。少しでも良いから強くなりたいと思い続けましょうよと。
あー、もうマウンテンは当分いいわー。
マジでキツイわー。無理やわー。
次からロングは絶対ロードに乗るわー。
と言わざるを得ない状況を作るため、早朝よりマウンテンバイクに跨りレッツゴーです!(つべこべ言わずに最初からロードに乗れよ・・・って話なんですけどね。)
さて。いつもみたくダラダラと気ままに走っていては何も変わらないので、今日は目的地とタイムリミットを設定しました。予定としては、
【午前の部】
5時40分に家を出発し、まずは国道2号を尾道まで。そこからしまなみ海道を縦走し、11時40分に今治港へ到着予定。切符と食料を買って12時00分発のフェリーに乗り込む。
【午後の部】
フェリーに揺られること1時間20分。
13時30分に岡村島を出発し、17時30分までに帰宅。ここからは4時間で70kmとペース的に余裕があるため、体力と気力と相談しながら帰宅ルートを選択する。
日の出前の早朝、東広島市内の自宅を出発。とりあえず前半は頑張ってペダルを回し、6時間で130kmを走り切るのが目標。もし船の出発時間に間に合わなければ、間に合わないと思った時点でUターンすれば良し。出発前は「まぁ平均時速20kmちょっとで走れば大丈夫っしょ!」・・・と軽く考えていましたが、いやいや、今の私にはこれがなかなか際どくて。しかも走りながら昔の事をふと思い出したのですが、よく考えてみれば5〜6年前にロードバイクで12時間(260km)走った時と同じようなペースで走らないといけなかったんですよね。しかも今回はマウンテンで。
どうやらのんびり休憩をとってる時間的余裕は無さそうなので、アンパンやカロリーメイトを食べながらひたすらペダルを回し続けた。通勤帯の三原市内から尾道市内、そしてバイパスの無い国道区間は我慢のストップアンドゴーが続く。
一度だけとった休憩は80km地点にある生口島のコンビニにて。補給食と水分を買い込み、少しストレッチをして再び出発。休憩時間は10分程度。
ここまではまずまず良いペース。
そして残すは50km少々。スピードが維持し難い来島海峡大橋周辺や今治市内で多少ペースが落ちたが、ほぼ予定通りの時間に今治港へ到着。
走り易いしまなみ海道に助けられたかな。
ここからは70kmを4時間という余裕のある時間設定。
まずは信号の無いとびしま海道のブルーライン・30kmを文字通りノンストップ。向かい風の中での走行でしたが、船の中でしっかり休憩を取っていたのでペースは若干上昇。
体力は尽きかけていたものの制限時間に余裕があったため、いくつかある帰宅ルートの中から最もワイルドな山岳コースをチョイス。
久しぶりの野呂山。海抜0mに近い出発地点から10km程度の道をダラダラと走り、標高800mを目指します。斜度はそれほど高くないので、速度を求めなければ登りきることくらいは出来るはず…でしたが、たったの10分の1ほど登った地点で、早くもやばい事に気が付きました。
あれあれ?
登り始めたばっかなのに、なんでこんなにキツイんだろ?
ってか、ギアがすでにインナーローになっているし(焦)!?
…と、ここで引き返せば良かったものの、騙し騙しのさだまさし作戦でダンシングとシッティングを繰り返しながら這い上がろうとした結果、山の中腹辺りでダンシングのために立ち上がった瞬間に左右のハムストリングが一度に痙攣しました。
登りの途中で道路に足を着くことは敗北を意味しますが、そんな事など考える間もなく落車寸前で路肩へ回避。じっくりとストレッチを試みて再スタート。
しかし、ものの10分ほどでハムストリングから脹脛、内転筋、大腿四頭筋と、ありとあらゆる下肢の筋肉が電気治療をしているかのように攣り始め、バランスを崩しながら緊急停車してはストレッチと再スタートを繰り返すありさま。こんな醜態を道行くサイクリストに見られたらと思うと、想像するだけで、、、嗚呼、生き地獄。。。
あーもう、何でこんな道を選んだんやろ!?マジあほちゃうか!?と、自問自答を嫌というほど繰り返し、まだかー?まだかー?と叫びながら予定の倍近くの時間をかけてなんとか山頂のロータリーに到着。
地獄のロータリー。
もはやペースもクソもありません。
停車時間がカウントされないため、数字以上に打ちのめされた感があります。
ちなみにここから先は下り基調ながらも、平坦路になれば内転筋を中心に痙攣を繰り返し、帰宅予定時刻より遅れること30分。
はやぶさ太郎の自転車人生でも指折りの過酷なライドを終えました。
こんな疲労感と敗北感、ここ数年味わって無かったなぁ…
あ、そうそう。
新しいヘルメット買いました。
詳しくは知らないけど、ボントレガーの、ナントカってやつ。
うん。シンプルイズベストやな。
あー、もうマウンテンは当分いいわー。
マジでキツイわー。無理やわー。
次からロングは絶対ロードに乗るわー。
「急に冷え込んできましたねえ」と、ご近所さんに月並な気候の挨拶をされてドギマギしているウブな皆さま、コニャニャチワ。
かくいうワシも日本人ですから、天気を絡めた挨拶に、わざとらしい笑顔を返す訓練にも慣れました。
知らないお年寄りから挨拶をされても、「あんた、いったい誰?」と聞き返さないだけの常識と心の広さを身につけましたから、ワシも成長したもんです。
日本に戻り、この未知の土地に住んで、はや十数年。普通の人にとっての生まれ故郷のように、ワシはあっさり馴染んで暮らしています。
やはり日本語が通じる土地はラクです。母国語ですから。
ワシは日本人なので、査証が切れて違法滞在者になることなどありえないという現実が、日本に戻ってもっとも気楽に感じることです。
異国での査証切れのプレッシャーからの解放感は、流れ者特有の感覚かもしれません。
なんか面白いことねえかなあとか、どこぞで安売りしてるから行ってみようなどとノンキにつぶやく以前に、この国で暮らすこと自体が違法でないという前提は、流れ者にとってはシミジミと幸せなことなのです。
ご近所には顔も名前も知らないオバサマたちがいたりするわけですが、なぜか彼女たちはワシのことを知っているのですね。ワシは外を歩いているだけでも目立っているという、これも男前の宿命なのでしょう。ジャニーズ系の気持ちが、少しは理解できるような気がします。
男前な一方、ワシはこの一ヶ月以上、複合的な体調不良です。
ブログの更新もままならないどころか、フルート発表会やその他の重要な用件も、ことごとくキャンセルになりました。スポーツの秋だというのにスポーツもできませんから、コーヒー飲みながら読書したり、アニメ見ながら焼き芋食って、ブーブーとオナラして過ごしております。
この体調の悪さの原因が薬の副作用なのか、あるいは他のことに原因があるのか、曖昧なところがうざったいです。大学病院でも、こういうことは判断が難しいんですね。
そもそも白血病というのは、その原因すらよくわからない病気ですから、根本的な治療法がないのはナットクできます。
ワシの超レアな種類の白血病に関しては、特殊な遺伝子がらみの問題があるようですが、DNAがどうのこうのと言っても、商売人のワシが日常生活でDNAと関わることなど皆無なので、ぼやけた話ではあります。
とりあえず、不摂生や暴飲暴食が病気の原因ではありません。
つまり、遺伝子がらみの問題ならば、発病に関してワシ個人の生活態度に責任はないと断言できるので、それはそれで良しとしましょう。
強いて言うなら、ご先祖さまから呪いの血を受け継いだってことでしょうか。嫌なものを相続したもんです。
どうせ相続するならば、金塊とかアンティークのフェラーリが良いですね。申し訳ないですが、欠陥品だらけのご先祖さま、全員死刑でお願いします。
あ、もうすでに全員お亡くなりでしたか。合唱。いや、合掌。
「原因不明の病気」の意味を逆から眺めると、「現代医学では完治できないことが証明されている」という意味になりそうです。
クルマの故障原因もわからずに、クルマの正しい修理はできません。白血病の治療とは、熟練医が経験とカンで手探りの修理をしているようなものかもしれません。
ワシの健康状態に反比例して、仕事は絶好調なのが奇妙です。健康運と金運は反比例するのかもしれません。
病気が発覚する以前は、ボールを追いかけ、芝生に大の字に寝っ転がって、ハアハア息を切らしながら青空と白い雲を眺めていました。
マウンテンバイクでジャンプしたり、急坂を下ったり、ガキのような暮らしが今では夢のようです。
ワシは何も考えていない健康バカではないので、健康なころから、この年齢でこの運動能力はありがたいことだと自覚していました。
昨秋、会計士の先生とのミーティングで、互いに健康であることの話題で盛り上がったのですが、その数ヶ月後に真逆な状況になるのですから、いわゆる死亡フラグを立ててしまったということでしょう。
「健康ってホント、ありがてえなあ〜。この健康さえあれば、あとはワシ何もイラネ」
と、シミジミ実感などするから、それを聞きつけた悪魔がフラグを立てちゃったんですね。
死亡フラグをご存知ない方に例をあげると、
「オレはこの最後の作戦を終えたら、国に帰って結婚するんだ」と言って出撃した戦闘機乗りは、絶対に基地に帰ってこれないという、ベタな展開の法則です。
これに関してはよくある話ですから、映画やアニメを観て研究しておくべきでした。
うっとうしい病気の話はこちらに↑ 置いといて、今日のお話は人工知能の話をします。
ワシは趣味で研究していることが三つあります。(と言っても、それらは脳内であれこれ思索する思考実験みたいなものですが)
ひとつは、原始人のOSの研究。
二つ目は、量子生物学が引き起こす現象の研究。
そして三つ目が、人工知能が社会をどう変化させるかの研究。
前者二つに関しては、ワシ以外の人間には意味不明でしょう。ワシ独自の学問もどきのようなものです。
その点、AI(エイアイ=人工知能のこと)は、ニュースなどで誰もが目にするポピュラーな話題だと思います。
人工知能に関しては、うすうす脅威を感じられている人もいらっしゃるでしょう。人工知能のことはよくわからないが、将来仕事を奪われるかもしれないという漠然とした恐怖です。
ここでは人工知能に関しての初心者向けの基本的な解説はいたしません。それはネットや書籍にいくらでも情報がありますので、興味のある方はそちらでAIの勉強をなさってください。
人工知能が失業を招くのは確実な話です。それも近未来の話で。
AIには二種類ありまして、特化型AIと汎用(はんよう)AIがあります。皆さんがニュースなどで触れる機会が多いのは、単一目的のための特化型(専用)AIでしょう。クルマの自動運転とか、将棋や囲碁のソフトウェアが特化型AIになります。
早い時期に実用化されそうな特化型AIに、クルマの自動運転があります。十年後のクルマは、自動運転が当たり前になっていると思われます。
となると、タクシードライバーや長距離トラックの運転は、人間ではなく機械の仕事になります。よって、人間の運転手は失業するでしょう。
「クルマが運転手なしで走るだなんて、私が生きている間にそんなSFみたいな時代が来るとは思えない」と考えている人も多いと思います。
科学技術は直線的に進化するのではなく、指数関数的に急激な進化をします。ワシはそれを、身をもって実感したことがあります。
ワシは若いころ、プロが顧客の現像所の営業マンをやってました。
そのころは、一般人がようやくビデオを所有するようになった時代です。ベータとかVHSですね。
ビデオの登場は、動画を電磁気的に記録することが当たり前になったことを意味します。(そのころはまだデジタルという言葉がありませんでした)
当時、静止画である写真の世界にも、いずれは電磁気的な記録方法が入ってくるだろう、という予感はありました。しかし当時のデジタル写真のレベルは、プロカメラマンや広告業界が利用するには、あまりにもお粗末なものでした。
デジタル写真がこの程度の性能ならば、フィルム写真は向こう五十年は安泰だろう、とワシや同僚は考えていました。フィルム現像の仕事が減って失業するまでには、まだ五十年かかると思っていたのです。
それが、この始末です。あっという間に商売そのものが消滅しました。
「フィルム現像」「36枚撮り」「焼き増し」「アルバム」という単語は、すでに死語になりつつあります。
新しい技術が実用化されると、だいたい七年で古い技術を駆逐するようです。科学技術の進歩の度合いはさらに加速がつくようですから、ワシが予想しているよりも、AIの進歩は早いかもしれません。グーグルやIBMなどの世界最先端をいく企業が、先を競ってAIを開発しています。
自動運転技術の進歩と共に、クルマの動力部は内燃機関から電気駆動に変わっていきます。ガソリンやディーゼルエンジンがなくなって、電気モーターで動くクルマが主流になるということです。
モーターの構造は単純なので、複雑なエンジン部品を作っていた下請けの会社は不要になります。電気自動車の部品点数は、ガソリン車の半分に減るでしょう。ここでも部品関連で大量失業者が発生します。
そうそう、ガソリン車がなくなれば、当然ガソリンスタンドもなくなりますね。
自動運転が話題になり始めたころ、「自動運転で接触事故が激減するだろうから、板金業は商売にならないだろう」とワシは予想していました。現実はそれどころでは済まないようです。
交通事故が減少すると、損保会社は自動車保険での金儲けができなくなります。損保は大学生の就職先としては人気のジャンルですが、わりと早い時期に異変が起こりそうです。
自動運転の時代は、クルマをシェアして使うのが当たり前になりそうです。そうなると、クルマを所有するという概念がなくなるかもしれません。我々は電車を利用しますが、電車を所有しているわけではありません。クルマもそういう感じになりそうです。
クルマのシェアとは、公共交通機関がさらに身近で便利になるようなものです。我々が鉄道を利用するには駅まで行く必要がありますし、駅に着いても電車が来るのを待たなければいけません。自動運転のクルマのシェアは、そのような当たり前と思っていた不便さがなくなります。
近未来のクルマは、路上で電車に乗るような感覚で利用されるでしょう。路肩に駐車しているクルマ、あるいは自動走行で流しているクルマを停めて、スマホやクレジットカードやスイカ(電子マネー)を使って利用することになりそうです。運転手も他の客もいませんから、プライバシー空間に包まれた公共交通機関です。
これだと個人がクルマを購入する必要もなければ、駐車場を借りる必要もありません。ガソリン代や車検や保険のことや、クルマをぶつけたらどうしようという悩みは考えなくて良いのです。
シェアの時代は、個人相手にクルマの商売をすることが難しくなります。クルマのディーラーは、国や地方自治体や法人を相手に取引することになります。
ワシのような乗り物好きはいつの時代もいるでしょうから、そういう人間は金を払ってクルマを所有することになるでしょう。あくまでも実用性ではなく、趣味の問題です。
問題は、マニアが喜ぶようなクルマが、その時代に作られるとは思えないことです。マニアが求めるのは内燃機関の旧車ばかりでしょうね。
自動運転のクルマは単独で制御するだけでなく、クルマ同士が通信し合い、より高度な交通管制が行われるようになるでしょう。旅客機には同様の衝突回避システムがあります。
歩行者の持つスマホをネットワーク化すれば、クルマが付近にいる歩行者の存在を完全に把握できますから、死角からやってくる子供の飛び出し事故も防ぐことができます。
世の中から交通事故が完全消滅する時代が来るのです。これはすばらしい話ですね。
となると、自動運転のクルマの走る道路に、非自動運転のクルマが混じることは非常に危険な状況になります。いずれは、公道での人間の運転は違法になるでしょう。
旧式の完全マニュアル車を所有するマニアは、サーキットや河川敷などの公道以外の閉ざされた空間で、移動目的ではなく、趣味でクルマを走らせることになりそうです。
そこまで金をかけてクルマを所有するよりも、未来にはもっと有効で楽しそうな金の使い方が出現しそうですが。
近未来には、自動運転のような特化型AIだけでなく、汎用AIも現れます。
汎用AIを一言で表せば、鉄腕アトムみたいなやつです。人間のようにふるまう賢い機械です。クルマの運転だけでなく、将棋も、料理も、掃除も、育児も、散髪も、耳掃除も、何でもやってくれます。
汎用AIは、あなたの代わりに仕事をして、金を稼いでくれます。ただし、このような人型汎用AIが現れるのは、まだまだ先の話です。
汎用AIはアトムのように人間の形をしているとは限りません。
「2001年宇宙の旅」に登場する宇宙船に搭載されたHAL9000は、有名なAIです。ハルには人間のような手足はありませんが、宇宙船そのものが意思を持った人格と言えます。
鉄腕アトムのような人間らしいロボットが現れるのは、五十年から百年後になるでしょう。単に二本足で歩くだけのロボットならわりと早く実用化されそうですが、手先や指先の器用さを持ったロボットの出現はまだまだ先になります。
器用なロボットは、どこかの研究所でわりと早く試作品が作られるかもしれませんが、それが二百万円ぐらいで我々が買えるようになるまでには時間がかかるのです。
ガソリンエンジンのクルマが世に出たのは十九世紀後半ですが、二十一世紀の今になって、ようやく中国の田舎の人もクルマを所有できるようになりました。そんな感じです。
AIコンピューターはソフトウェアですから、瞬時に世界中に広まりますが、物理的な機械の人型AIロボットが日常になるには、クルマの歴史のように時間がかかるのです。
人間型のAIロボットを作るのは難しいですが、人間の知能を持った汎用AIコンピューターなら、わりと早い段階で実用化されます。ハルのような、人間のように振舞うコンピューターが出現するのは十五年後と思います。
賢いコンピューターが出てくると、いわゆる知的労働者の大量失業が始まります。
今までは工場にロボットが導入されると、単純作業に従事する人間が失業していました。ところが人間以上の頭脳を持ったコンピューターが出現すると、知的労働者が不要になるのです。
人工知能の得意なジャンルがありまして、それには病気の診断、裁判の資料作り、銀行の融資業務などがあります。
医者や弁護士や銀行マンにとっては厳しい時代になります。勉強して良い大学を出て、良いところに就職できたと思ったのに、すぐに機械に仕事を奪われます。
営業マンのコントロールもAIは得意ですから、企業は社長と平社員だけになりそうです。中間管理職はAIがやった方が効率が良いのです。
いずれは、企業の人員は社長一人だけになり、後はすべてAIになるでしょう。
AIは職場環境に応じて姿を変えます。コンピューターが業務を管理し、産業用ロボットが商品を製造し、人型ロボットが配送や接客をするでしょう。
AIのコンピューターやロボットが、人間の代わりに労働をしてくれれば、これはラクです。彼らに働いてもらって、我々は遊んでいればいいのですから。
問題は、人からAIへの労働の移行が徐々に行われることです。そのために、矛盾と衝突がいたるところで起こります。世界同時に労働者からAIへ仕事が一斉に引き継がれたとすれば、これは理想社会の到来です。ところが、実際はそうはいきません。
職場で少しずつAIが導入され、少しずつ労働者がリストラされ始めます。失業率が数十パーセント台に突入したら、社会は大混乱です。もはや失業保険や生活保護でカバーできる状況ではありません。
この状況にどう対応するかというアイデアがいろいろあります。
AIに対しても給料を支払い、それを税金として徴収するとか、国民全員を企業の株主にして配当金を出すなどです。
失業者が増えれば、ワークシェアリングで一人の仕事を二人で分け合うアイデアもあります。一人当たりの労働日数は半分になり、給料も半分になります。このような状況になると、物価も下がるから問題は起こらない?という楽観的な説もあります。しかしワークシェアリングは、AI過渡期の一時的な対処療法に過ぎません。
19世紀の産業革命で自動織機が導入された際、労働者が工場の機械を破戒する運動が起こりました。労働者は機械に仕事を取られて失業することを恐れたからです。
しかし、時代の流れには逆らえませんでした。AIの導入を避ける選択肢もありえないのです。
それどころか、労働者の事情や社会混乱などを無視し、率先してAIの導入を推進する国があるとしたら、彼らが最終的な勝ち組になるのは確実です。
ある国家が、企業のAIへの移行が緩やかになるように規制をかけたとします。その一方、別のある国家が労働者を犠牲にし、企業のAI導入を無制限に奨励したとします。
すると後者の方が、より高性能のAIを安く大量に作れるようになります。金は儲かり、さらに技術革新が促進され、科学も経済も急激な発展を遂げるのです。
シンガポールやニュージーランドのように、もともと人口の少ない国なら、AIへの転換をやり易いでしょう。これらの人口も面積も小さな国が、アメリカのような大国と肩を並べる可能性があるのです。
そのころの日本政府の混乱ぶりが目に浮かびます。失業保険が出ないとか、今まで払った年金はどうなるんだと文句を言う国民が相当数いるでしょう。
ワシから見れば、年金制度ってのはほとんど詐欺みたいなシステムですから、政府は最後まで詐欺が露見するのを先延ばしにするでしょう。
こうなると、中国のような独裁国家の方が有利です。
国民の事情など考えず、国家にとってもっとも効率的な政策を、有無を言わさず実行できます。失業者が暴動を起こしたら、軍隊で鎮圧します。人民解放軍兵士は、AIロボットになっているかもしれません。命知らずの軍隊です。中国政府は迷うことなく、企業にも軍隊にもAIを導入するでしょう。
AI時代到来で世界大失業の嵐が起こると、労働者に対して無慈悲の独裁国家が西側先進国を蹴散らすのです。中国やロシアが、経済的・軍事的大国になる可能性があります。そうならないためにも、政府は真剣にAI問題を考えるべきなのです。
これから話すのは、世の中がAIやロボットで埋め尽くされて、もはや人間が働く必要のなくなった、さらに先の時代の話です。
人間は会社勤めとしての仕事がなくなっただけではありません。炊事、洗濯、掃除、買い物も含め、一切の家事や労働行為を人工知能が代行してくれる時代です。今から百年後の未来です。
労働をしなくなった未来の人間は、いったい何をして暮らしているのでしょうか?
子供のころ、誰もが言われたと思います。
「勉強しないと、大人になって苦労するよ」
人が学校で一定の教育を受ければ、卒業後に仕事を得ることができます。仕事をすれば、金を稼ぐことができます。金があれば食料や服を買うことができ、余裕があれば遊びにも行けますし、将来に備えて子供に教育の機会を与えることもできるのです。
つまり、人は金を稼いで、より良い生活をするために勉強や努力をしてきたのです。それが資本主義の基本原理でした。
ところが、AIの時代には人は労働をする必要がなくなります。労働は機械の仕事ですから、人間は食費や家賃や教育費を稼ぐ必要がないのです。
ということは、未来の人間は勉強をしなくても学歴がなくても、経済的には問題がないことになります。未来では、努力家も怠け者も、基本収入では差がつかないのです。
AIの時代もお金はなくならないでしょう。お金は消費のために必要な単位です。小銭やお札はなくなって、電子マネーやクーポンなどの電子データになるでしょう。政府や企業がこれらのポイントを無償で国民に配給し、国民はそれを使って消費活動をするのです。
その時代に仕事をしている人間は、全体の数パーセントでしょう。人は無職であってもお金をもらえるわけですから、もはや努力とか勉強とか学歴は過去の価値観になるのです。
その時代も学校は残るでしょう。学校は教育をする場ではなくなり、クラブ活動を通じて友人を作るコミュニティになるでしょう。
その時代にも学問の場はあります。それは将来の金儲けのために勉強するのではなく、知的好奇心を満たすための純粋な学問の場です。昆虫採集の好きな人や、古今和歌集を深く研究したい人にとっては朗報です。
「そんな方面を勉強したところで、卒業後に就職口などない」と、批判されることがない時代ですから。
AIの時代は、人は好きなことを好きなだけ勉強でき、それが許される時代なのです。AIやロボットが我々の暮らしに浸透して、我々の生活が機械的に変化するのではなく、人は金とか出世とかを気にせずに、純粋に人間らしさや好きな学問を追及できる時代になるのです。
大学入試もなくなります。本来、学校とは、何かを学びたい人間すべてに対して、門戸を開くべきなのです。
何のために入学試験があるのかというと、東大で勉強したいと思っても、すべての志望者を講義室に迎え入れることなどできないからです。講義室には物理的なサイズがあり、収容できる人数の制限があります。そのために大学は難しい試験を行って、優秀なエリートだけを選抜するのです。バカに教育するよりも、賢い奴に教育を施す方が、社会全体の利益になるから、現状では今の入試システムは優れていると言えます。
未来の教育は講義室など必要ありません。ネット経由で、誰でも超一流大学の講義を自宅で受けることができます。
その時代の教師は人間ではなく、人工知能が教えています。講師はAIですから、質問があれば即座に答えてくれます。何千人が受講していても関係ありません。AIが先生ですから、朝でも夜中でも好きなときに講義を聞けるし、昼食時には中断もできるのです。
これらの講座を受講したとして、はたして卒業試験のようなものがあるのでしょうか。
今の時代、資格試験を取得する目的は、より良い就職口を見つけるための手段です。ところが、AIの時代は就職のために勉強するわけではありません。純粋に知的好奇心を満足させるために勉強するのです。そういう人たちには資格とか肩書きなど必要ないはずです。
しかし、人は達成感が欲しいでしょうから、希望者に対しては、達成度を確認するための形式的な試験があるかもしれません。
未来には、人間に補助記憶装置が装着されると思います。メモリーを増やせば、いくらでも記憶容量を増やすことができますし、物忘れもなくなります。手帳も資料もスマホも、持ち運ぶ必要がなくなります。
記憶装置のイメージとしては、メガネやコンタクトレンズみたいな感じの、着脱式デバイスでしょうか。あるいは、恒久的な体内埋め込み式になるかもしれません。日常のあらゆる体験が、チップに記録されるようになるでしょう。
となると、人間は長時間の講義を受講する必要などなく、興味のある講義をクリックすれば、自分のメモリーチップにその知識が瞬時に入ってくることになります。
二秒もかからずに世界中のすべての詩や小説をダウンロードすることもできます。後は脳内でそれを再生して楽しめるわけですね。アマゾンの電子書籍のキンドルが、体内に常駐するようなものです。
あー、こりゃ便利だわ。風呂の中でも、目をつぶったまま読書できるわ。
で、世の中から金儲けの目的がなくなったとすると、人間は努力することなく堕落するだけなのでしょうか。
人間の向上心は本能的なものだと思います。今の時代に堕落している人間は、AIの時代にはさらに加速がついて堕落していくでしょう。衣食住は保証されていますから、余ったクーポンや電子マネーをギャンブルにつぎ込んで散財しても良いのです。刹那的な快楽に走るのも人間らしさです。
まあ、ワシはそうはなりたくないですが。
向上心は残るといっても、コツコツ努力する人間の成功は過去の遺物になります。コツコツ努力は機械の価値観です。それはAIが一番得意なことですから。
AI時代の人間の勝ち組は、遊び人です。
未来では、芸術やスポーツをやる人間がもてはやされるでしょう。
ロボットのプレイする野球を見物しても、AIが演奏するピアノを聴いても、それらの完璧なパフォーマンスに感動が生じるとは思えません。
子供のころ、クラスの人気者は「マジメなガリ勉タイプ」ではありませんでした。運動神経の良い男の子や、歌の上手な女の子がモテました。AIの時代は、そのような子供時代のヒーロー・ヒロインが道を開くのです。
子供のころに、遊びの中心となっていた少年少女がいたでしょう。あいつが来ないと面白くねえや、と思われていた人物です。
このような少年少女は、勉強ができるのもできないのもいたと思います。勉強ができたとしても、同時に遊びが上手です。仲間を引き連れて、新しい遊びや遊び場を開拓する子供です。子供の世界のベンチャー企業みたいな存在です。
ワシは良き労働者であり、良き経営者のつもりでいました。
ワシの方針は「良く働き、よく遊べ」です。
AIの時代を迎えるとなると、ワシが築き上げてきた価値観をいったん捨て去る必要があります。ワシは柔軟性が取り柄ですから、簡単に方針転換が可能です。
AI時代の新たなワシの方針、それは「よく遊べ」のみです。
AI時代にふさわしい人間の資質とは、コツコツまじめにやることではありません。それらの価値観は、AIが簡単にできることだからです。人間が機械の代わりをしても、自慢にはなりません。
世の中の、退職して手持ち無沙汰なお父さんは、仕事あっての人生でした。逆に言えば、今までは科学技術が遅れていたために、人間がAIのやるべきことを代行していたのです。
このような古い価値観のお父さんは、趣味を持つことに興味を示さないどころか、逆に趣味人を見下しています。「オレは仕事しか取り柄がない」ということ自体が自慢なのです。
一方、子育てを終えたお母さんたちは、元気な人が多いです。多様な趣味を持って、活発に動き回っています。遊びに関しては、まるで営業マンのような機動力です。
AIの時代に楽しく過ごせるのは、仕事人よりも趣味人であることは間違いありません。仕事一筋の人間は、世の中から人間のやる仕事がなくなった時に、自分自身の存在意義をどう感じるのでしょうか。
この空虚さはどこからくるのか。オレのやってきたことは、けっきょく機械と同じだったのか、と感じるかもしれません。
ワシに関していうと、金があるときも貧乏なときも、常に「何かオモロイことねえかなあ」と考え続けてきました。この遊び人の感覚は、機械にはなかなか真似できない貴重なことなのです。
AIの時代は、スポーツや音楽が得意な人間が勝ち組になるでしょう。これらの活動は、自分だけでなく、他人も楽しませることもできるからです。
音楽は、録画や録音された媒体の価値が減少すると思います。今の時代でも、ユーチューブで無料で音楽を聴くことは可能です。便利な時代になりましたが、残念ながらそこに深い感動が生じているとは思えません。
未来では、AIがグールド以上の器用さでバッハを弾くでしょう。そのピアノは、音楽的にも数学的にも一分の隙(すき)もない完璧なものになります。
完璧な音楽はそれはそれで意味があるのでしょうが、人に感動が与えられるかというと、それは別問題だと思います。
AIの時代こそ、生演奏に価値が出てきそうです。大ホールで、あるいは小さな喫茶店で、そのピアニストの演奏を聴くために人が集まるのです。
その演奏はAIのように完璧な技術を伴うものではありませんが、人の心を動かすはずです。
ここが重要なところです。
AIの時代こそ、金や名誉に左右されずに、人間が人間らしく輝ける時代がくるのです。その人間らしさを探求するのが、我々人間の仕事です。
才能はあっても、貧乏だから花開かないという不公平さがなくなるのです。
そう考えると、AIで失業を心配するなど、小さな問題のように思えてきませんか。
少なくともこのワシだけは、今からAIを最大限に利用してやろうと、新しい時代の到来を楽しみにしています。
今日の一句、
AIに 仕事取られて もらい泣き
(45歳、千葉県、無職)
評: どこかで聞いたダジャレのような気もしますが気のせいでしょう